前田 寛治 1896~1930 |
鳥取県東伯郡北条町の農家に生まれる。倉吉中学校卒業後上京し、1916年、東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二に師事。在学中、内村鑑三の講演を聴いてキリスト教に傾倒する。郷里の美術家たちと砂丘社を結成し、同人誌の発行や展覧会活動を行なう。1921年、美術学校を卒業。同年、第8回二科展、第3回帝展に初入選。1922年、倉敷で大原コレクションのフランス美術に感銘を受ける。渡仏を決意し、同年、横浜を出発、同船者には世界周遊中のアインシュタインがいた。翌年2月、パリ着。以後2年半をパリで過ごす。この間、中学の同級生・福本和夫と再会し、親しい交友が続く。マルクス主義者・福本の影響から、作品の主題に労働者、工場が選ばれるようになる。同時にレアリスムの探求を自身のテーマとし、セザンヌ、マネ、アングルらに注目、中でもクールベの研究に力を注いだ。また前田が“パリの豚児”と名付けた里見勝蔵、中山巍、佐伯祐三夫妻ら、多くの画家と交友した。1925年、帰国。帝展に滞欧作《J.C嬢の像》を出品し、特選となる。木下孝則、小島善太郎、里見、佐伯と「1930年協会」を設立。1928年、前田写実研究所を自宅に開設し、絵画理論を深めるとともに、後進の指導にあたった。1929年、帝展の審査員に推挙される。帰国後の代表作に、《棟梁の家族》《裸体》がある。東京で没。
個人美術館 鳥取県立博物館 - 作品43点を所蔵、常設展示室に寛治コーナー設置 |