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三宅克己という水彩画家 Ⅱ

一生を水彩画家として全うした三宅克己。菱田春草、小室翠雲、中沢弘光、満谷国四郎、鹿子木孟郎、和田英作らと同じく、生まれたのは明治7(1874)年のことでした。洋画界では高橋由一や山本芳翠らの第一世代があり、その後に続いた黒田清輝や久米桂一郎、藤島武二らの第二世代が東京美術学校に新設された西洋画科で指導、今日にも影響が残るほどの教育制度や美術の制度の基盤を作りました。そして、大正期にはゴッホやゴーギャン、セザンヌなどの生き方や表現に刺激を受けた岸田劉生、萬鉄五郎、村山槐多らの若い画家や、ヨーロッパから帰国した有島生馬、梅原龍三郎、安井曽太郎らの活躍に注目が集まります。三宅克己らの世代は黒田ら第二世代と、大正期の若い世代との間に位置することになります。しかも彼らが洋画修得を志した10代の前半から半ばにかけては、国粋主義が優勢となる洋画の冬の時代でもありました。浅井忠らも学んだ工部美術学校が閉鎖されたのは明治161883)年、その後東京美術学校に西洋画科が設置されたのが明治291896)年のことでしたので官設の洋画教育機関は約13年間不在の状態が続きました。三宅と同い年の中沢弘光が東京美術学校に入学したのが22歳になる年齢だったことはやむを得ないことでしょう。大まかに言ってしまえば美術史として概観した場合、彼らの世代は残念ながら少し霞んで見える位置にあります。

 そうした苦難にも関わらず、三宅はわが道を切り拓くことができました。推測するに、その理由は三宅の楽観主義にあったのではないかと思えます。楽観主義といえば語弊があるかもしれません。ひとつには、20歳で日清戦争従軍を経験し、最前線にて死に直面する体験をしました。どんなことがあろうとも、その後の苦難は生死にかかわるようなことではない。だから、気構えず、生活資金についても必要以上に心配せずに住みたいところに住み、アメリカやヨーロッパなど行きたいところへ何度も向かう。ダメだったら方針を転換すれば良いだけの話。

 気楽に構えるという姿勢は三宅の文体にも現れています。明治381905)年に出版され、何度も再版を重ねる人気を誇った三宅克己の『水彩画手引』(図1。その序文のところを読むだけでも、謙虚さに満ちていて、それがかえって読者をリラックスさせているようです。

「本書は独学によりて水彩画を学ばんと欲する諸士のために著したるものなれば、その説くところなるべく平易簡明ならんことを期したり。ゆえに師に就きて専門に習得せんと欲する者のためには、あるいは何らの価値無かるべし。 著者元来文筆の才能無く、その説くところ述ぶるところ、あるいは前後矛盾、あたかも麻の乱れたるがごときものあらん。もしそれ文字の誤謬、文意の不明なる点に至っては、ほとんど指摘なすにいとまあらざるべし。読者幸いに余が不文の罪をとがめたまわざれば、著者においてこの上の幸福あるなし。(漢字の一部をひらがなに変更)」

多少の誤りは大目に見てくださいとの断りが、人間っぽくて良いですね。この序文だけでも人心をつかむ文才を感じます。三宅が水彩画家として生きていく覚悟が早くからできたのは、一つには大野幸彦という工部美術学校出身者の画塾で行われていたイタリア古典風の教育方法が三宅には息苦しかったこと、そして画塾で学び始めて1年後の、まだ駆け出しの時期にイギリス水彩画家が描いたヨーロッパの風景でなく日本の風景画を目にし「一時百雷に打たれた程の強烈な感激を受け」(註1)たことが大きかったのかもしれません。当時、師の大野からはまだ水彩画の制作が許されていなかった段階で、こうした時期に本場の水彩画に出会えた体験は、中沢弘光や岡田三郎助など入塾時期のより早かった画家たちとは受容する新鮮な感覚が異なっていたものと思われます。